補助記憶

私は、いつも幸せな子だった。

愛されて育った、と間違いなく記憶していた。

朝の光はいつもやさしく、窓の外には白い鳥の声がしていた。
家の壁は薄いクリーム色で、指先でなぞると少し粉っぽかった。
それがなぜか好きだった。

世界がまだ柔らかく、なんにも壊れていない証のように思えたから。母は朝ごとに朝食を作った。
味噌汁やサバの匂いが部屋の奥まで満ちて、
私はそれを「幸福の匂い」と呼んでいた。

幸福には

温度があり、
匂いがあり、
形があると、

私は本気で信じていた。

父は新聞を読みながら、時折小さく咳をした。
母はその音に合わせるように茶碗を並べる。
時計の針がひとつ進むたび、
家全体が呼吸しているように思えた。

窓辺には観葉植物があり、
朝の光が葉の裏を透かしていた。

私はその影を手のひらで掬い、世界の柔らかさを確かめるように眺めていた。
朝食を食べ終えると、母はいつも同じように言う。

「今日も、笑顔を忘れないでね、あかり。」

その声を聞くと、私は背筋を伸ばして頷いた。

笑顔を忘れないこと。

それが、幸福の正しい使い方のように思えた。通学路にはいつも同じ顔ぶれがいた。
パン屋の前では甘い匂いが漂い、道端の犬が欠伸をしていた。

私は毎日同じ風景を通り抜け、それを“変わらない幸せ”と呼んでいた。

風はやわらかく、街全体が眠気を引きずったまま光の中に溶けていった。


私は世界を疑うことを知らなかった。
誰かが嘘をつく理由も、
誰かが泣く場所も、
この世のどこかにあるとは思えなかった。

「私は単純に、純粋に、幸福であった。」
ただ、それだけのこと。

昼休み、校庭の隅にいつも一人でいる子がいた。
名前を知らなかった。

いつ見ても同じ場所に座り、ノートを膝の上に置いて、
何かを書いては風にめくらせていた。
その姿が、どうしてか気になった。

近づく理由もなかったけれど、私は風に押されるように歩き出した。
砂の上を靴がきしむ音がして、子はゆっくり顔を上げた。

目が、どこか懐かしい。
どこで見たことがあるのか、思い出せなかったが、

それでも私は微笑んだ。「何を書いているの?」と尋ねると、
子は少し考えてから、

「夢のこと……」と小さな声で答えた。

風がまたページをめくり、白い紙が陽に透けた。
そこには、何も書かれていなかった。

「夢って、見たことのこと?」
「ううん、まだ見てない夢。」

子はそう言って、目を細めた。

私はなぜか嬉しくなり、
自分のパンを半分ちぎって渡した。
子はそれを受け取ると、少しだけ笑った。

その笑顔が、どこかで見た朝の光に似ていた。


昼の鐘が鳴った。
振り返ると、子の姿はもうなかった。
まるで最初からそこにいなかったように、
風だけが砂を撫でていた。

教室に戻ると、友達が集まって笑っていた。
誰かが冗談を言い、誰かがそれに大げさに笑い返す。
私はその輪の中に入り、いつものように笑った。
けれど、ふと窓の外を見たとき、
校庭の片隅に、まだ誰かの影が残っているような気がした。

「ねえ、今日、あそこに座ってた子、知ってる?」

そう聞くと、隣の子が首を傾げて言った。

「そんな子いた?」

私は言葉を失い、ただ笑って誤魔化した。
笑い声が再び教室を満たした。
私も笑った。

いつものように。午後の授業は静かだった。

先生の声が遠くで響き、チョークの音が一定のリズムを刻む。
私はノートに「夢」という文字を書いてみた。
そこに意味があるのかどうかも分からなかったけれど、
白い紙の上でその字が光に溶けていくのを見ていると、
なぜか安心した。



放課後、同じ場所を通ったとき、
ノートが校庭の隅に落ちていた。
拾い上げると、最初のページに一行だけ書かれていた。
——「あかり」


帰る道は、
朝よりも少しだけ長く感じられた。

夕陽が街を斜めに照らし、
電線が赤く染まっている。
風はどこか潮の匂いを運び、
遠くで踏切の音が鳴った。

私は歩きながら、
世界が少しずつ色を変えていくのを見た。

影が伸び、
光が傾き、
時間が音もなく形を変えていく。

川沿いの道を通ると、
水面が夕陽を映していた。

小さな波が立ち、
光が細かく砕けて流れていく。
私は立ち止まり、
両手でその眩しさを遮った。

「世界は生きている。」そう感じた。

そして私は、その中の一部であることを疑わなかった。


家に帰ると、母が窓を開けていた。
カーテンが風に揺れ、
部屋の中に夕暮れの色が入り込んでいた。
母は縫い物をしていて、
針の先が光を掠めるたびに小さな瞬きをした。

「おかえり、あかり。」
「ただいま。」

そのやり取りだけで、
世界の輪郭が整っていくように感じられた。
父は居間でラジオを聞いていた。
古い音楽が流れ、母が口ずさむ。

その時間がいつまでも続くような気がして、
私は床に座り、本を開いた。
文字の列が光を吸い込みながら並んでいる。


世界の中で、何も欠けていない。
幸福とは、きっとこういう状態のことだと、
私はそう思った。


ときどき、夜に夢を見る。

夢の中の私は、
少し違う顔をしていたような気がする。
でも朝になると、
そのことは忘れてしまう。

朝食の匂いの中で、
昨日の夢は溶けてしまう。
夢はただの影。


私はいつも光の中で生きている。

「あかり」

それが、私の名であった。
母はよく言った。
「君が生まれた瞬間、私たちの人生も明るくなったのよ。
だから、あかりという名をつけたの。」


その言葉を聞くたびに、
私は何か胸の奥を撫でられるような気がした。
生まれながらにして、
誰かの人生を照らしたのだという。


その確かさが、
幼い私の小さな誇りであり、同時に、
まだ知らぬ世界への静かな約束のようにも思われた。

私は、自分が光であることを疑わなかった。

笑えば、人が笑い返してくる。
黙れば、風の音が代わりに話しかけてくれる。
世界は、私の明るさを受け取るために回っているのだと、

本気で、そう信じていた。

夕暮れ時、部屋の窓に落ちる光が机の上で淡く揺れた。
私はその光を手のひらで受けとめ、指の隙間から覗き込んだ。
透けた皮膚の奥を、細い赤い流れが通っていた。

私の中にも光が流れている。

そう思うと、
何もかもが穏やかで、完璧であった。

夜になると、母は必ずランプに火を灯した。
その炎がガラス越しに揺れるたび、
部屋はやわらかな呼吸を始める。

「見てごらん、あかり。夜にも光はあるのよ。」

母はそう言って、少し寂しげに笑った。

その微笑みの奥に、私の知らない何かが沈んでいるようにも思えたが、
幼い私は、
それを深く考えることなく眠りについた。

布団の中で、遠くの灯がぼんやりとまぶたに映る。

私は小さく呟いた。

「ふむ。。私はあかりだ。」

この名がある限り、世界はまだ、あたたかかった。